宗谷の歴史(第4次南極観測)

「宗谷」の活躍は実は「南極観測船」だけじゃないって知ってました?

ここでは「南極観測船」として活躍した時期を中心に、長きにわたる「宗谷」の感動の歴史を

ご紹介いたします。

第4次南極観測
大型ヘリコプターによる昭和基地への航空輸送

 今回のヘリコプターによる空輸の成功から、第4次改造工事は航空輸送作戦をより円滑に実施できることを目標とし、航海船橋の後部に航空指令室を増設し、後部マスト中段にヘリコプターの吊り上げを容易にする枠型クレーンを新設しました。

 第4次南極観測は、船長が航空輸送に詳しい明田末一郎(あけたすえいちろう)船長に交代し、昭和34年(1959)10月31日船長以下94名の乗組員と立見辰雄(たつみたつお)隊長以下36名の観測隊員を乗せて東京を出発しました。ヘリコプターによる輸送実績は合計103便126トンにも達し、雪上車による輸送28トンを含めると総計154トンにもなって、第3次に比べ実に3倍の輸送量に達したのです。加えて、鳥居鉄也(とりいてつや)越冬隊長以下15名の越冬隊員を残し帰路につきました。
 大成功を収めた帰途、"宗谷"は、いまだアメリカ軍の占領下となっている沖縄に招かれて寄港しました。昭和35年(1960)4月16日、大歓迎の中を那覇に入港、"宗谷"の乗組員及び観測隊員を通して唯一の沖縄出身者「ヒゲのボースン」の愛称で親しまれた嘉保博道(かほひろみち)甲板長は、特にもみくちゃになるほどの歓迎を受けたのです。
 しかし、この航海で"宗谷"の船体が非常に傷んできていることも分かりました。そこで、大きなヒビの入ったスペクタクルフレーム(プロペラ軸を支える枠)を新しく換えて、緩んだリベット1,500本を打ち直しました。もはや、"宗谷"による南極観測は限界に近づいて来たのです。

初のオブザーバーのメロイ氏(右)と三田操舵長(左)
第4次観測の立見隊長(左)、明田船長(中)、鳥居副隊長(右)
沖縄出身の嘉保甲板長