宗谷の歴史(第2次南極観測)

「宗谷」の活躍は実は「南極観測船」だけじゃないって知ってました?

ここでは「南極観測船」として活躍した時期を中心に、長きにわたる「宗谷」の感動の歴史を

ご紹介いたします。

第2次南極観測

 東京に戻ってきた"宗谷"は、あわただしく浅野船渠に回航され、さまざまな試験と補修工事がただちに行われました。
 まず、砕氷能力を若干でも大きくするためスピードを犠牲にして、プロペラのピッチ(取り付け角度)を変え推力を増大させました。

氷の中に完全にビセットされた"宗谷"、周辺の氷が盛り上がってくる

 また、搭載予定の貨物が400トンから500トンに増大したため、船首のウェルデッキ(中央が一段低くなった甲板)を廃止して、全通のフラッシュデッキとして船倉の容積及び居住区間の増大を図り、前部のマストも門型に改造し、横揺れを少しでも解消するため特別なビルジキールも取り付けられました。
 こうして、本観測に向け再び準備を整えた"宗谷"は、昭和32年(1957)10月21日、松本船長以下80名の乗組員と永田隊長以下50名の観測隊を乗せて前回より半月早く東京の日の出桟橋を出港しました。今回は、随伴船を伴わず単独で南極を目指します。

"宗谷"の救援に駆けつけたアメリカ海軍の砕氷艦"バートンアイランド"

 しかし、この年の南極の気象状況は極めて悪く、12月23日氷海に突入しましたが、すぐにパックアイスに囲まれ身動きができなくなります。たび重なる氷の爆破、チャージング、はては竹竿で氷を押しのける人海戦術まで繰り広げ、前進を試みますが、12月31日来襲した強力なブリザードにより、"宗谷"は完全に氷に締め付けられ周囲の氷盤が圧力で盛り上がってきます。

"宗谷"は身動き取れないまま、約1ヶ月大氷原とともに西方にゆっくりと押し流されて行きます。もはや、自力では航海することができず、完全に漂流状態になってしまいました。海上保安庁は、ついに外務省を通じて付近にいるアメリカ海軍の砕氷艦"バートンアイランド"に"宗谷"の救援を要請します。

 "宗谷"は救援を待たずしてからくも氷海から脱出するのですが、2月1日密群氷を航行中に左スクリュー・プロペラに翼の1枚を折ってしまうという大事故に見まわれました。
 それでも、7日"宗谷"は"バートンアイランド"と会合し、協力を得て再び氷海に向かい、本観測をなんとか成功させるため懸命の努力を重ねます。

氷の爆破作業も何度となく行われた
総出で行われた、氷塊を竹竿で押しやる人海戦術
無残に折れた左スクリュー・プロペラの翼

 2月10~12日、天候回復のわずかな時間を狙って、ビーバー機により西堀越冬隊長以下11名の第1次越冬隊及び犬7頭の収容と第2次越冬隊3名を送りますが、その後の気象状況は更に悪化していきます。 14日2次隊の3名と犬3頭を再び収容、悪天候のため資材20トンを氷上に置いたまま外洋へと脱出しました。

越冬隊員収容に飛び立とうとするビーバー機
村山隊長(右から2番目)以下7名に縮小し、最後の望みをかける幻の第2次越冬隊

 その後も、第2次越冬隊を7名にまで縮小してビーバー機による空輸の可能性を捨てずに天候の回復を待ちましたが、24日ついに越冬計画を断念、「夕ロ」「ジロ」を含むカラフト犬15頭をやむなく南極に残してこの地を去ることとなりました。
 苦しい決断をした松本船長はその時、「ただ今より、本船は帰路につく。長期にわたってよく目的達成のために続けられた全員の努力に謝す。自然の猛威に妨げられ本観測としての最少の希望をも果たし得なかったのは誠に残念であるが、全員141名は無事本船にあり。乗組員一同は一層注意と努力を傾けて残された海上輸送の万全を期せ」と訓示しました。

 このとき、日本国内では南極観測に失敗したことより犬を南極に置き去りにしてきたことに多くの批判が集まりました。しかし"宗谷"も観測隊員も最後の最後まで、危険を顧みずに犬たちの救出に努め、必ず第2次越冬隊を成立させようと必死の努力を重ねたのです。
 傷つき、疲れ果てた"宗谷"は、翼の折れたスクリュー・プロペラをいたわりながら、4月28日故国日本に帰りつきました。