宗谷の歴史(南極観測船“宗谷”発進!)

「宗谷」の活躍は実は「南極観測船」だけじゃないって知ってました?

ここでは「南極観測船」として活躍した時期を中心に、長きにわたる「宗谷」の感動の歴史を

ご紹介いたします。

第1次南極観測
完成した南極観測用建物。わが国初のプレハブ住宅だった

 昭和31年(1956) 11月8日、東京は朝から霧雨の降る肌寒い一日でした。しかし、出港を目前に控えた鮮やかなアラートオレンジの"宗谷"と、停泊地の晴海ふ頭は異様な熱気に包まれていました。ふ頭につめかけた数千人の大群衆、いたる所に大きなのぼりや横断幕が掲げられ、手にした小旗が振られ、海面には多数の見送り船、上空には数機の取材ヘリコプターが旋回しています。

 午前11時、松本船長の「もやい外せ」の号令で、ついに"宗谷"離岸!たくさんの紙テープが投げられ、岸壁ではバンザイのうずが巻き起こり、港内の船という船が次々と門出を祝う汽笛を鳴らすなか、"宗谷"は静かに岸壁を離れ始めました。
 こうして、松本船長以下77名の乗組員、永田隊長以下53名の観測隊員、22頭のカラフト犬、1ぴきのネコ、2羽のカナリヤ、南極基地の建物や雪上車など400トンの貨物を積んで通路もいっぱいになった"宗谷"は、未知の南極へと航海を始めたのです。

箱詰めされる冷凍食品。女優ブロマイドも封入された

 この「第1次南極観測」は、当初「予備観測」と呼ばれていました。南極観測に参加する各国は、通常は何回かの調査活動を行ってから南極観測に向かっていました。しかし、わが国はそうした準備が間に合わず、とにかく本観測の前にせめて予備の観測を行おうということで、あわただしく出港したのです。
 また、初めての南極観測ということもあって"宗谷"1隻では不安があり、急遽、東京水産大学の練習船"海鷹丸"(うみたかまる) (1,450総トン)を改造の上、随伴船(ずいはんせん)とし同行させることとなり、熊凝武晴(くまごりたけはる)船長以下52名の乗組員と実習生27名を乗せて、"宗谷"出港に先立つ10月28日、東京竹芝桟橋を出港しました。

食品類の積み込み。倉口が小さく手間取った
"宗谷"への荷の積み込みは出港まで連日多忙を極めた

 一方、"宗谷"は、出港してすぐの11月15、16日いきなりアクシデントに見舞われます。フィリピン西方洋上で台風19、20号にダブル遭遇、船体が激しく動揺しローリング(横揺れ)が38度にも達し、とにかく「"宗谷"はえらく揺れる船」という評判になってしまいます。この原因は、通常の船にはローリングを大幅に軽減するビルジキールと呼ぶ魚のヒレのような細い板を付けているのですが、"宗谷"は氷を割るのに邪魔ということで、この板を取ってしまいました。そのため、コロコロと非常に揺れる船になってしまったのです。

"宗谷"の随伴船に指名された東京水産大学の"海鷹丸"
赤道通過に際して船上で行われた「赤道祭」

 その後、11月23~28日シンガポールに寄港し、総領事主催の晩餐会に招待されるなど歓迎され、11月29日マラッカ海峡を抜けてインド洋へ入り、ついに12月1日赤道を通過、珍妙な「赤道祭(せきどうさい)」が乗組員と観測隊員合同で行われ大いに盛り上がったことは言うまでもありません。

 航海の途中、さまざまな観測や、手旗や天測(てんそく)の実習、ヘリコプターの試験飛行などを行って、いよいよ12月19日に随伴船"海鷹丸"とともに最後の寄港地、南アフリカのケープタウンに入港しました。29日、"海鷹丸"とともにケープタウンを出港、いよいよ魔の「暴風圏」が待ち構えています。
 31日、大晦日のこの日ついに「暴風圏」に突入!よく揺れる"宗谷"は本領を発揮してまるで振り子のように動揺します。ちなみに「暴風圏」では最高62度!(復路の3月4日)までローリングしたとのことです。
 明けて、昭和32年(1957) 1月1日午前8時、激しい動揺の中で乗組員、観測隊員ともに正装して後部ヘリ甲板に集合、新年の挨拶を行いました。前部マスト上には門松も立てられました。
 しかし、あれほど激しかった動揺も1月4日にはぴたりとおさまり「暴風圏」を突破、この日初めて右45度にいぶし銀のように光る氷山を発見します。
 10日、南極大陸の周囲を固めるパックアイス(密群氷)の縁まで到着、ここに留まって海洋観測を行う"海鷹丸"よリガソリン入りのドラムカン47本を受け取って別れを告げました。
 ヘリコプターで上空より氷状偵察を行った後、「極地航海保安部署、配置につけ」の号令がかかり緊張する中、16日進入路を決めてついに氷海に突入、砕氷前進を開始しました。20日さらに厚く固い定着氷の外縁部まで到着、氷の爆破やチャージング(体当たり)を繰り返して、さらに奥まで進みます。

随伴する"海鷹丸"より見た、「暴風圏」で悪戦苦闘する"宗谷"

 1月24日、これ以上前進することは不可能と判断、南緯69度東経39度の地点に接岸を完了し、ただちに犬ソリ隊による偵察を開始し、翌25日に基地建設地点をオングル島として荷物の陸揚げを開始しました。
 そして迎えた1月29日、オングル島に公式上陸して、ここを「昭和基地」と命名、南極に高々と日の丸の旗が掲げられました。遠い祖国日本でも、号外が出され、その快挙に国中が沸きあがったのです。

南緯69度、東経39度の地点に接岸を完了、ただちに積荷が降ろされる"宗谷"

 休む間もない2月1日、雪上車による昭和基地への物資輸送が始まります。基地まで走行距離25キロメートル、往復に10時間を要す大輸送作戦が開始されました。5日には早くも47トンの輸送を終え、無線棟、アンテナ柱の建設が完了します。
 ところが、11日急に天候が悪化し強い北風が吹き始めて氷上の荷物が一部流失してしまいます。パックアイスの外にいる"海鷹丸"からは、風が変わって氷状も変化し始めたこと、オープンシーが狭くなっていくことなど、厳しい南極の冬がにわかに迫ってきたことを告げてきます。一日の猶予もなりません、しかし物資は1トンでも多く運びたい。乗組員と観測隊員の厳しい葛藤がそこにありました。そして"宗谷"は2月15日南極を離れることに決まりました。

昭和32年1月29日、オングル島に公式上陸を行う
雪上車による昭和基地への物資輸送

 ところで、今回の予備観測の当初目標は「南極観測基地として適当な地域を決定し、基地建設を行って次年度の越冬観測に備えよ」というものでした。しかし、観測隊内部ではケープタウンを出港したときから、なんとしても今回の観測で日本初の南極越冬隊を成立させようということが、全観測隊員の総意で密かに決められていました。

 2月14日、出発前日の夜までに総計151トンの物資輸送が完了し3棟の基地と発電棟も完成して越冬隊用の食料・燃料の確保も十分できたことを確認して、永田隊長は西堀副隊長をわが国初の南極越冬隊長に正式に任命、越冬隊員10名とともにわが国初の南極越冬隊が編成されました。
 明けて15日12時30分、小雪がちらつくなか"宗谷"は、西堀越冬隊長以下11名の第1次越冬隊員、雪上車4台、カラフト犬19頭、ネコ1ぴきを冷たい氷上に残し、来年の再会を約して長い汽笛を唄らしながら南極を離岸しました。

"宗谷"の前に整列した松本船長以下の航海科乗組員
西堀越冬隊長(前列中央)以下、11人の第1次越冬隊

 しかし、離岸の翌16日より天候は悪化、"宗谷"の周りをパックアイスが取り巻きます。18日状況はさらに悪化、19日に至って「現状では、いかなる機械力をもっても脱出不可能」と本国に打電、いよいよの時は氷海の外で待機する"海鷹丸"に観測隊員をヘリコプターで移送することとし、"宗谷"は氷の中で越冬を覚悟して準備に入りました。

昭和32年2月15日、11人の越冬隊を氷上に残して南極を離れる"宗谷"

 27日海上保安庁は、ついに外務省を通じてアメリカ及びソ連に"宗谷"の救援を依頼します。28日氷状がわずかに好転し外洋まで2.5海里に達した所で、ソ連砕氷船"オビ"が"海鷹丸"の誘導で救援に到着、厚い氷を割りながら"宗谷"の前に進み出て脱出の水路を閧いてくれました。"宗谷"のマストには、「救援を感謝する」との信号旗が掲揚され、両船のデッキは互いに健闘を祝しあう人々でいっぱいになりました。
 "宗谷"と"海鷹丸"は合流して共に、3月10~15日ケープタウンに寄港した後、4月5~13日シンガポール寄港、24日ついに東京に帰りつきました。
 このように予備観測は、幾多の苦難を乗り越えて奇跡的に大成功をおさめましたが、南極大陸の本当の厳しさは翌年思い知らされることになるのでした。

南極を離れた直後、氷に阻まれ身動きできなくなった"宗谷"
"宗谷"の前に進み出て、力強く砕氷前進し脱出の水路を開く砕氷船"オビ"