宗谷の歴史(誕生の秘密)

「宗谷」の活躍は実は「南極観測船」だけじゃないって知ってました?
ここでは「南極観測船」として活躍した時期を中心に、長きにわたる「宗谷」の感動の歴史を
ご紹介いたします。

誕生のひみつ
"宗谷"誕生の話をするには、まずこの船を建造した川南(かわみなみ)工業という造船所のことから語り始めなければなりません。
 川南工業の創業者、川南豊作(かわみなみとよさく)は、日露戦争の始まる直前の明治35年(1902)、富山県礪波(となみ)郡の農村に生まれました。県立富山水産講習所に学び、大正8年(1919)に設立間もない製缶工場に実習生として勤務を始めます。しかし、独立を志して退職、自ら工場を設立し成功すると、新たにソーダとガラスの製造事業を始め、コスト削減には船による大量輸送が必要と知って造船に目を向けます。
川南工業の創業者 川南豊作社長
 昭和11年(1936)3月、川南社長は長崎県の香焼島(こうやぎじま)という所に12年間閉鎖されたままになっている松尾(まつお)造船所という工場があることを聞きつけ、直ちに視察に向かいます。陸軍将校が決起し、首相宮邸などを襲撃した、あの「二・二六事件」の起こった翌月のことでした。
 ここで、不思議な人と出会います。案内人をつけて荒れ果てた造船所に到着し、さっそく中に入ろうとした時です。
 「入っちゃいかん、ここは松尾さんの工場だ!」ボ口をまとったような老人がそう言って立ちはだかります。事情を説明して、ようやく通してもらいましたが、聞けばこの老人、吉田三茂(よしだみつしげ)といって松尾造船所の守衛長をしており、閉鎖されてからも12年間恩ある松尾社長のため手弁当で毎日警備に来ているというのです。よく見れば服も守衛の服でした。
昭和14年に建てられてた吉田守衛長の碑
 この話に感動した川南社長は、直ちにこの松尾造船所を買い取ることに決め、松尾孫八(まつおまごはち)元社長に顧問への就任を要請、吉田にも守衛長を任せることにします。
 このような人々で再建すれば必ずよい会社ができると確信したからです。吉田守衛長は不幸にして問もなく病に倒れて亡くなりますが、川南社長は社葬をもって弔い、住まいの跡に碑を立てて、その人徳を称えたのでした。
 松尾造船所では、直ちに昔の工員が呼び集められ、炉に火が入り工場が生命を吹き返し始めました。川南社長も工場に泊り込んで再建を陣頭指揮し、わずか3か月後の6月には、記念すべき復興初の第1O1番船"下松丸(くだまつまる)"の起工を行い、高らかに槌音(つちおと)が響き始めました。
 このころ、ソビエト連邦(現:ロシア連邦)は、カムチャツカ半島沿岸で使用する、音響測深儀を装備した耐氷型貨物船3隻を建造可能な造船所を探していました。そして再建間もない松尾造船所が、この船3隻を受住することになったのです。そして、その2番船が後に"宗谷"となる船だったのです。
復興した松尾造船所初の建造船"下松丸"の進水式